六谷山と池ノ山



六谷山の反射板(2009年6月19日撮影)

所在地富山市(旧大山町)、飛騨市(旧神岡町)
登山口(茂住峠) アプローチ茂住から林道を辿り長棟峠から
登山口標高茂住峠1070m 清五郎谷1260m
標   高六谷山1397.6m 池ノ山1369m
標高差六谷山327m 池ノ山109m
沿面距離六谷山1.8Km 池ノ山0.9Km
登山日2009年6月19日
天 候晴れ
同行者長勢、新井、石黒
コースタイム 茂住峠(58分)六谷山<休憩10分>(10分)反射板<休憩10分>(13分)六谷山(54分)茂住峠
清五郎谷(40分)池ノ山(何故か50分?)清五郎谷



茂住から茂住峠までは車で移動 茂住峠から清五郎谷までも車で移動
 

茂住峠から六谷山の反射板まで往復
 

長棟川支流の清五郎谷に車を停めて池ノ山を藪漕ぎ往復
 
 長勢と石黒チームとの山行き計画が言葉足らずでダブルブッキングとなってしまった。
 長勢が池ノ山も六谷山も興味のある山ということで石黒チームの計画に便乗することになった。


茂住峠の登山口
 

登山口から5m入ると昔の峠道と石仏がある
地蔵菩薩と不動明王か?
 朝7時に笹津の第二ダムで待ち合わせ、国道41号線を南下する。岐阜県に入ってすぐの茂住集落から左に折れて茂住峠を目指す。
 大規模な崖崩れで数年間普通となっていた林道が昨年から開通している。3年前、茂住集落から歩いて六谷山に登った。
 あれはあれで意味があったのだろう。


六谷山頂上の広場
 

流石に一等三角点は大きい(1辺が18cm)
 
 茂住峠に車を停めて六谷山を目指す。尾根に出るまで急登が続く。中部電力の標識が所々にある。
 尾根を左に折れてアップダウンを繰り返すと六谷山頂上だ。左側に漆山岳やソンボ山が見えるはずが、かすんでいてよく見えない。


南側遠くに見えるのが池ノ山
 

 六谷山頂上は刈り開けてあるが視界はよくない。やや北東よりにある三角点は一等だ。一辺18cmは流石に大きい。
 反射板に意味はないが行ってみる。とにかくこういうところは行ってみないと気がすまない。


反射板の下に咲いていた花
 

ギンリョウソウ(ユウレイソウ)
 
 今日はもうひとつ山が残っている。茂住峠に戻り、長棟川へと降る。長棟川につきあたってから右に折れ、長棟川を上る。
 しばらく走ると長棟集落の跡に出る。


長棟集落跡に残っているお宮さん 今でも毎年お祭りが催されている
 
 この集落は江戸時代からの歴史を持ち、かつては一千戸をほこる家屋があったという。
 ちょっと自分の話をすると、父はこの集落出身である。いや正確に言うと子供の時に高山市からこの集落に養子として入ったらしい。その経緯は今となっては知るよしもない。


左側に建っている狛犬(吽)
 

右側に建っている狛犬(阿)
 
 今でも、長棟出身の人たちが春に集まって祭りをやっている。平均年齢は80歳ぐらいだと思われる。
 その子供たちは日本全国に離れ離れになってしまい、長棟を知る人は少なくなってしまった。祭りの灯が消えるのも時間の問題だろう。


左の石仏は不動明王で中央は地蔵菩薩のようだ 右側の2体は不明
 
 長棟集落を過ぎて長棟川を上る。長棟川支流の清五郎谷から池の山へと向かう。清五郎谷は子供のころ大津山から行ったことがある。
 大人も子供も含めた会社主催のスキー大会をやった。その日まで育てた豚を1頭しめて、豚汁にして皆で食べた。
 高校時代に清五郎谷でキャンプをしたことがあった。多分、大津山側から池の山を越えて行ったのだと思うが記憶が定かでない。


何故か清五郎谷に東京大学の雨量計が...
 

藪の中に残されていた赤いテープに従う
 
 池の山にまつわる伝説として思い浮かぶのは池を掘り割った大人たちの話だ。池にいた魚を捕まえるために池の水を抜いて(堀割って)根こそぎ捕まえてしまったらしい。
 それを食べた人達は皆、高熱を出して寝込んだという祟り話のおまけまで付いていた。
 本当にあった話しなのかどうか、今は確かめようもない。


池ノ山頂上の三等三角点(一辺が15cm)
 

北側3m地上2.5m程の木の上にあった標識
 
 林道終点から藪こぎとなる。尾根筋を行こうとするが微妙に波打っていて複雑だ。赤いビニール紐が張ってあってそれを辿る。
 稜線に出てしまうと藪は薄くなった。かすかな踏み跡もある。400m程稜線をたどったところが池ノ山だった。
 刈り開けた中央に三等三角点がある。積雪期と違って視界は効かない。記念撮影をしてすぐに降った。


池ノ山頂上三角点の前に立つ新井、石黒、長勢
 
 視界の効かない尾根の降りで、赤いビニール紐が役に立った。駐車場所まで戻り、昼食。車の横なので持ち込み放題。
 の、 はずだが食べられる量は変わらないし、スタイル的に慣れていない。いつもと変わらない料理となった。


頂上から清五郎谷駐車場所まで戻って宴会
 

シャーベットビールを見るのは初めてでしょ?
 

清五郎谷にあった小屋の跡らしい
 

長棟集落入口にある不動明王と地蔵菩薩?
 

高校2年の夏、清五郎谷小屋でキャンプ 向かって左から2番目です
 
 帰り道、もちがかべ(という地名だったと思う)から大津山へ分岐している道に入り、大津山の集落跡へと向かう。
 ほとんどの家は崩壊し、藪に覆われてしまって往時を偲ぶものはない。アパートの防火壁といくつか残っている建物だけが、以前ここに人が住んでいたことを物語っているだけだ。


帰り道、大津山集落跡に寄る
 

大津寮跡に残った防火壁
 
 かつてここに300軒、1000人が住んでいた事を誰が想像出来よう。それを知る人達がいなくなれば、歴史の中に埋もれてしまい、忘れ去られていく。それでいいのだろう。


右上写真とほぼ同じ所から撮られた写真です
坂下明(神岡町在住)さんの写真集「消えた風景」より
 大津山の神社は学校の横にあった。いまも鳥居と灯籠が残っている。手を清める水場の大きな岩(水をためるために掘ってある)も苔むしていたが残っていた。


日本のマチュピチュ? 白い屋根の右上の長屋が私の住んでいたところ
坂下明(神岡町在住)さんの写真集「消えた風景」より
 廃村になってから10年後ぐらいだろうか、まだ残っていた校舎の中に入ってみると、廊下の黒板にチョークで書かれた文字が残っていた。
 今週の目標
  1.廊下を走らない
  2.給食の前に手を洗いましょう
 これを見たときぞっとして振り返ってあたりを見渡した。まだ誰かいそうな気がしたからだ。


大津山の神社に残っていた鳥居
 

右側の灯籠は立っていたが左側は倒れていた
 
 ある日突然、人が消えてしまったかのようだ。それくらい完璧に、急激に引越が敢行されたのだ。
 自宅から通勤できる体制を作り、家が間に合わなかった人達には国道41号線沿いの茂住や猪谷などに社宅を用意したのだろう。
 冬には陸の孤島となる山に住む大人達の長年の要望だったらしい。子供だった私には冬もスキーが出来る楽しい所でしかなかったのだが..


大崩壊していた茂住からの林道を何故直したのだろう
 
 林道の途中に抗口がひとつあった。増谷(地名)の抗口と呼ばれ、父もここにしばらく勤務していた。
 神岡町から猪谷まで鉛や亜鉛を運んだトロッコは資材運搬だけではなく、人も運んだ。一両に10人ぐらいしか座れず、まともに立てないような客車だった。それが林道脇に倉庫として利用されたまま、朽ちずにまだ残っている。


林道途中にあった増谷抗口跡の建物
 

まだ残っていたトロッコ(神岡〜猪谷)の客車
 
 山行記というより、大津山の思い出話になってしまった。だが、誰も知らないこんな話もたまにはいいか?


ペンペングサ(ナズナ)かと思ったが違うような...
ダレカタスケテ