漆山岳 |
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所在地 | 飛騨市神岡町 | |
中山 | アプローチ | 41号線で岐阜県に入ってすぐの集落 |
中山標高 | 255m | |
漆山岳標高 | 1393m | |
標高差 | 単純1138m | |
沿面距離 | 登り7.9Km 降り6.5Km | |
登山日 | 2009年4月9日 | |
天 候 | 快晴 | |
同行者 | 長勢 | |
コースタイム |
中山(1時間10分)水無谷川出合(1時間15分)コル(48分)漆山岳<休憩10分>(10分)分岐<昼食休憩3時間15分>(1時間5分)水無谷川出合(1時間)中山 合計8時間52分<休憩3時間20分含む> |
5日前に偵察したソンボ谷。5日間で風景は変わっていた。温かい日が続いたせいか、雪融けが進んでいる。 雨と晴れとでも雰囲気が違う。同じ所を歩いているような気がしなかった。 |
今回は長勢が参加してきて2人となる。熊の心配が少し減った。単独の場合、叫んだり、意味のない言葉を発したりしているが、それもすぐ忘れてしまう。 2人だと会話もあるし、足音も倍である。 |
今回は中山集落から少しだけ入ったところに車を停めさせてもらう。進入禁止の看板に「入って何かあっても知らないよ」と自己責任でやってくれと言うような事が書かれていたからだ。 水無谷川出合で橋を渡らず、左に分岐している林道に入る。5日前よりかなり雪が溶けていた。 左に大きくカーブしていて、曲がってすぐに右に分岐している林道に入る。真っ直ぐに行く林道は山の中腹まで延びているようだ。 |
水無谷川を右に見ながら林道はなだらかに続く。500m程行ったところで橋を渡り、左岸のヘアピンをショートカットする。 水無谷川はなだらかで、長勢と何を話したか思い出せないくらい、とりとめのない歩きが続いた。 |
左へと続いている沢に惑わされず、水無谷川のコルに出る。広がるのは予想通りの北アルプスから穂高、乗鞍、御岳だ。 |
横岳、高幡山は同定が難しい 手前に見える山の右端が池ノ山 この下に41号線が走る |
ソンボ谷のこと思い出しながら書いて見ます。
私の父親が、笹津ヤキヤマ(八木山?)にあった軍需工場を敗戦で辞めた後、つなぎの仕事としてソンボ谷へ炭焼きに入ったことがありました。
とうじ、私は小学校に通わなくてはならないため、姉と二人で船津のお婆さんの家(父方)に引き取られ、次男(昭和十七年生まれ)と次女がソンボに入りましたので。ソンボは夏休みの間だけでした。
そのころの道は、川伝いに木馬道しかなかったのではないかと思っています。木馬道は知っていますか。木で桟橋を作り、そりに積んだ荷物をロープやワイヤーでで摩擦させながら荷物を降ろすもので木材搬出などに欠かせないものでした。
道も川を遡ったのでなく、西茂住から山越えで行ったように思います。といいますのは、もう80歳に近い従兄弟が母方のお爺さんが死んだ時、それを連絡するため山越えで行ったのを今でも思い出すと今年の年賀状に書いていましたし、中山のほうから歩いた気憶がないのです。
大津山から見て、西茂住のソラの尾根に少しへこんだ部分が峠で道がありました。ここを越えて降りたところに谷が二股になった部分が炭焼きをしていたところです。
その後、昭和40年半ばと思いますが、オートバイを手に入れた記念として、中山からソンボ谷に魚釣りに入ったときは林道がありましたが、舗装も何もなくブルドーザーで押し広げただけの荒れた道路でしたので、途中に置いて登ったように記憶しています。
あとは、昭和31年だったと思いますが、伐採には入っていた木こりが三月末に雪崩四人にやられ、うち一〜二人が死んだように聞いていますので、屋敷跡が残っていればその時分の飯場だったかもしれません。ですから、林道が出来たのは、ブルドーザーが日本の土木工事に使われるようになった昭和30年代半ばに入ってからのことではないでしょうか。
ちなみに、旧の伊西トンネルに到る道路が出来たのは昭和32年ですが、まだ、重機は一切なく、岩を火薬で割るための孔も削岩機でなく、玄翁で鏨を叩いていたので、鉱山の削岩機が凄く近代的に見えた覚えがありましたが、その削岩機も乾式といって水を使って岩粉を出さないのがようやく入り始めたときです。
大体こんなことがソンボの思い出です。しかし、ソンボのことを知っている人と話し合えば、またほかの記憶が出そうですが、またの機会にします。参考になったでしょうか、それともまとはずれ?、、、。 それではまた 静岡 南政雄 追*ニッサンチュウ(西山中)は宮川沿いの山の中で大洞山の西側、旧坂下村、宮川村などを言い、ソンボはそのうちに入らなかったと自分の気持ちでは思っています。 |