打保谷川



大きな岩が続く打保谷川(2010年6月7日撮影)

所在地飛騨市神岡町
佐古登山口 アプローチ国道41号線の土より大田和峠への道
登山口標高600m
登山日2010年6月7日
天 候
同行者単独



打保谷川は跡津川の支流だが取水面積は跡津川の四倍ほどある
 
 切雲谷と同じく気になっていた神岡の沢がある。跡津川の支流「打保谷川」である。
 何故かこのあたりは同じ意味の漢字がダブっている地名が多いような気がする。高原川対岸には「漆山岳」「水無谷川」等がある。


跡津川集落手前の石仏群
 

生活の匂いのする建物はない
 
 跡津川沿いには数年前まで大多和峠を越えて有峰へぬけられる道があり、料金所もあった。だが途中の道路が私有地で通行禁止となってしまった。
 通る車が少なくなって集落の人達も快適な生活を取り戻せただろうと思ったら、集落の人達自身がいなくなってしまっていた。このまま廃道となっていくのだろうか?


半壊しかかっている建物
 

雨戸が閉めっぱなしの建物
 
 打保谷川の取り付きは佐古の集落から150m程降らないといけない。2万5千図には跡津川まで降る道が書いてある。
 さらに五万図には打保谷川と跡津川の間の尾根から青木峠を越えて山之村まで道がひかれている。だが期待は出来ない。


佐古集落に車を停める
 

唯一の道下にある家への道
 
 国道41号線の土(地名)で左折して跡津川沿いの道に入る。途中の跡津川集落は人の気配がなかった。洗濯物もなく、雨戸は閉められたまま。
 その奥にある佐古集落も同様だった。さらに奥にある大多和集落は推して知るべしだろう。


家の近くにあった石仏群
 

杉の植林帯には道があった
 
 2万5千図に載っている道をたどって跡津川に降る。草付きを降ると杉林に入る。ここには道があった。
 だが、杉林が終わると道は消え、ヤブこぎとなる。降り立った河原は打保谷川の出合から50m程下流だった。


杉林を越えると道はなく藪漕ぎとなる
 

下まで降りると腰まであるコゴミの林
 
 靴を脱いで裸足になり、徒渉する。膝までたぐったパンツはたぐり方が足りなくて結局濡らしてしまう。
 主流であるはずの跡津川は水量が多いものの支流のような雰囲気である。打保谷川の方がスケールは大きい。
 岩の大きさも全然違う。打保谷川の水量が少ないのは上流に北電の取水口があるからだろう。


打保谷川出合 左が跡津川で右が打保谷川
 
 多分、雨が降ったらこちらの方が水量が多くなるだろう。地図で見ても取水面積は跡津川の5倍ぐらいありそうだ。
 実際に谷に入ってみると、直径が4〜6mほどもある岩がゴロゴロしている。それを押し流すだけの水量があるという事だ。
 川幅が狭いので雨が降りそうな日は入ってはいけない谷のようだ。


明るい跡津川 水量は多い
 

暗い打保谷川 石の大きさが違う
 

突入という感じがぴったり
 

意味不明の(48+50)
 
 打保谷川は川幅が狭く、大きな岩が多い。ボルダリングしなければいけないような岩は簡単に越えられず、高巻きを強いられる。あまり面白くない。


岩魚の姿も見えた淵
 

(49+50)
 

高さ7〜8mもありそうな岩もある
 
 この谷のもうひとつの欠点は生活臭がある事だ。上流に山之村という集落があり、ホースや金網、タオルまでひっかかっている。
 水に浸かって沢心を行くというような気にはなれない。


上流に山之村集落があるので
 

生活廃棄物が散らばっている
 
 幻の大滝まで行きたいと思っていたが単独では難しそうだ。途中、両側がムカデとなっている。高巻きも難しいだろう。
 おまけに指のある動物の足跡を発見。この大きさなら熊しかいない。出直す事にする。


見たくなかった指のある足跡
 

キリンソウ(?)
 
 思った通り、復路は往路をたどれない。視界が違うからだ。岩を飛び降りたりしながら降った。
 降りの方が簡単だろうと思うのは間違いだ。沢も岩壁と同じように降りの方が難しい。高巻きも降りの方が難しい。


ボルダリング出来そうな大きさの岩が続く
 

岩の上をたどってという沢ではない
 
 出合まで戻り、往路と同じように靴を脱いで徒渉する。ところが苔でヌルヌルの岩に足を取られて転倒。
 腰まで濡らしてしまう。最悪。だが、リュックに縛り付けた靴は濡らさずにすんだ。これで靴まで濡らしたら何のために靴を脱いだか解らない。


上流の集落の大きさを考えると水にはさわりたくない
 
 道路まで戻ってみると道路下にあった唯一の家の煙突から煙が出ていた。勇気を出して戸を叩いてみる。
 台所みたいな板の間で60代ぐらいの男性が1人、食事をしていた。打保谷の事を聞いてみる。


流木から育ったイタドリ
 

栃の実に刺さったススタケ
 
 谷沿いに登った人はいない。両側が絶壁で大きな滝もあり、無理だとの事。青木峠越えの道も、もう通れないと言う。
 想像通りながらなんとなく安心する。何故か...


唯一人が住んでいた佐古の家
 

人気のない建物は怖い
 
 いつもながら廃村を見る度に言葉に出来ない複雑な思いが心をよぎる。父の育った長棟、私が育った大津山。すべてが廃村となって久しい。


もう人が戻る事のない建物は
 

やがて朽ち果てて行くのだろうか?
 

「源流を訪ねてW」(岐阜新聞社)に跡津川の事が興味深く書かれている。
多分、こういったものは転載禁止だと思うが個人のサイトで
営利目的ではないので許されるんじゃないかと思って載せた。
何よりもこの文章を沢山の人に読んでもらいたいとの思いからだ。

 高原川の支流跡津川を、上流へとたどると佐古の巣落へと行き着く。跡津川はここでまっすぐ東に上る川と、上流に向かって90度向きを変え右に上る川、つまり南にたどる川とに分かれる。
 本流は、距離が長く河川規模も大きな南にとって上るこの川で、その源流には山之村が控えている。

 さて、本流から分かれてまっすぐ東へと上る支流は、何と呼ぶ川なのか。神岡町全国で見ると、こちらの川も跡津川と記されていて、目を疑う。
 本流も支流も同じ名前を持つ河川は、調べたわけではないがおそらく、全国でもまず例はないだろう。
 信頼のおける国土地理院の地形図を見るとなんと、これにもまっすぐ東に上る川が、跡津川と明記されている。

 ただし、本流とする山之村へと上る川には、河川名が記されてない。不思議なことである。念のために神岡町の役場に開いてみた。
 それによると山之村へと上り、本流だと信じていた河川名は打保川と呼ぶそうだ。そして、支流だと思っていた東に上る川こそが本流で、跡津川である。こんな返答だった。

 この見解について神岡町役場は「佐古の集落で分かれた二つの川は、1級河川のはじまる起点が、跡津川字兎畑九五番地先に定められている限り、その上流で展開する二つの河川には、跡津川と呼ぶ川の名は存在しない。
 あえていうならば、まっすぐ東へ上る川が本流で、跡津川で良いのではないか」このような説明であった。

 つまり、佐古の集落で、2本に分かれる河川はいずれも、1級河川の区間から外れているから、跡津川とは呼ばない。といったことだ。
 この川を漁業権で管理する高原漁協に開いてみた。
 「南に上り山之村を源流とする川が本流で、跡津川と呼ぶ。東に上る川はその支流で、大多和川と呼ぶ」
 こういった回答であった。この認識が一般的で同感したが、しかし、役場から開いた河川名が気になることから念のため、いくつかの地図を開いてみた。

 すると、地図によってはどちらの川にも跡津川の名が見え、釈然としない。また、役場の言う山之村から流れ下る打保谷川のことも細かく調べてみた。
 その結果である。南に上るこの川は、山之村に入ってしばらくすると、打保川と森茂川とに呼び名が変わる。
 これは、土地の人が長年呼び慣れた川の通称名でもある。山之村に突き上げる河川名を「打保川」とする役場の説明は、山之村から流れ下る川の名を、延長してとらえたものであった。

 二つの川、つまり、本流も支流も跡津川、実にすっきりとしない。だがこういった場合は、あくまでも河川規模の大きい流れを本流と決めるのが主義。したがって、山之村へと上る川が、跡津川の本流で良い、そう決めた。


「源流を訪ねてW」に出てくる佐古集落のこと

 跡津川に洽った街道の栄えたころ、佐古の集落は重要な存在であった。つまり佐古の集落では、越中有峰の集落から大多和峠を越え、跡津川を下って高原川の本流に出て、ここで越中東街道と合流する有峰街道の往来と、跡津川の本流に洽って青木峠を南に越えて、山之村へと出入りする往来、さらには、佐古から見ると北西の位置にあり、池ノ山と高幡山との中間に位置する長棒峠を越え、越中の長棟(現富山県上新川郡大山町)へと行き来する道。このように、有峰街道の中にあって佐古の集落は、重要な道が交わる交差点でもあった。そのためこの集落には、人や物の往来を監視する関所、□留番所が置かれていた。


「源流を訪ねてW」に出てくる青木峠のこと

 佐古の集落から跡津川の源流、山之村へと出入りする道の話である。
 鎌倉街道のわき道ともいわれたこの道には、青木峠と呼ぶ標高860メートルの難所があり、昭和30年代までは、山之村で飼われ、越中へと運ばれた農耕牛馬(国府、神岡、上宝、丹生川村などの主から預かって育てる牛馬)が頻繁に通った。

 また越中からもその時代までは、塩や魚、薬などの生活物資が日常的に運ばれた。
 そんな街道に陣取っていた青木峠は別名「青木嶺」とも呼ばれたが(峠のことを嶺と書いた時代もあった)、一方では「青木ケ原」、あるいは[青木平」とも呼ばれていた。
 この「原」と「平」を意味するものは、そこは鞍部とか頂というよりむしろ、それには似つかない平たんな場所で、どこが峠であるのか判然としない地形であった。

 だから、その名があてがわれた。そんな峠の一帯には、湿地が広がり、春ともなればミズバショウが一面に咲くと聞いた。
 青木峠を越え、佐古の集落と山之村とを行き来した道筋には、下山と呼ぶ集落が、ぽつんとあったことが記録に残る。
 この集落は、萱葺きの萱を茂らせる萱場(萱野)でもあり、別名として荒屋とも 呼ばれていた。

 今はないかつての下山の集落は、1673年からの延宝年間、穀物が収穫できないといった最悪の天候に見舞われ、多くの餓死者を出した。
 そのため16軒あった家々は、3軒を残して離散し、廃村同然となった。また江戸時代末期の冬期には、今の生活では考えられないが、火種がなくなったことで、集落の者全員が、一夜にして凍死したことも記録に残されている。
 青木峠を越えるこの古い道は今、一部は山之村から車も入るが、それ以外は廃道と化し、通う者もない。

この他にも読んでもらいたい文章は沢山あるがきりがないので三つだけにした。
唐尾峠、山吹峠、大多和峠や双六谷、金木戸谷のことも興味深く書かれている。


こちはらもうひとつの廃墟 国道41号線沿いにある三井金属の茂住選鉱場跡