大津山 |
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所在地 | 飛騨市大津山 | |
茂 住 | アプローチ | 国道41号線 |
登山口標高 | 695m | |
標 高 | 870m | |
標高差 | 単純175m | |
沿面距離 | 2.2Km | |
登山日 | 2016年4月2日 | |
天 候 | 晴 | |
同行者 | 単独 | |
コースタイム |
もちがかべ(35分)大津山<散策他1時間45分>(50分)もちがかべ 歩行1時間25分+散策1時間15分+ランチ30分 合計3時間10分 |
1975年の夏、忽然と消えた街「大津山」。7月まで1000人が住んでいた街が8月に一斉に引っ越しを始め、9月には誰もいなくなっていた。 全部の家が三井金属の社宅で、全員が社員だったという特殊性がそれを可能にした。 |
数年後に廃墟となった大津山の小学校を訪れた。廊下に「今週の目標 1.廊下を走らない 2.右側通行 ...」と書かれた黒板がそのまま残っていた。昨日までこの廊下を生徒達が走っていたかのように... 山全体が神隠しにあって消えてしまったような「大津山」。私の原点である。久しぶりに訪ねてみた。 |
大津山への道は茂住から長棟へ抜ける林道の途中から分岐している。地名は「もちがかべ」漢字名は「餅が壁」か? 昔住んでいた人しか知らない地名である。 分岐のすぐ先で雪に行く手を阻まれた。車をデポして歩く。 「もちがかべ」と「大津山」の間に沢が三つあり、上から一ノ谷、二ノ谷、三ノ谷とよんでいた。沢ガニをとりによく来たところである。 |
上り坂だった林道が水平道に変わる。しばらくたどると広場に出る。大津山の中心地だったところである。購買部とよばれた会社が営業していたデパートみたいな大きな店と、いくつかの小さな個人商店があった。 そのほかに人事部、消防所、診療所、学校などがあった。映画館を兼ねた劇場も近くにあった。 |
広場から先へ行ったのは初めてだ。雪解け後で草も生えていず、木の葉も繁っていなかったので行けたのかもしれない。 昔の面影はない。所々にトロッコの台車が残っされている。連結されたまま引っ張られていくと決まった場所(鉱石を降ろす索道の始発地点)で台車が傾き鉱石が落ちる構造だった。特殊な構造なので麓へ降ろしても使い道がなかったのだろう。 |
索道は生活の動線でもあった。冬場は積雪が半端じゃなく(3m以上)道路は除雪されないままだった。貯蔵がきかない生活の必需品(野菜や肉、魚など)は毎日索道で運びあげられていた。 |
下界から隔絶されたような大津山だったが唯一、光の見えるところがあった。「かんでら」と呼ばれていた。漢字名は「蟹寺」である。(蟹の化け物が出るという伝説がある集落) 当時は発電所があって明るかった。その光が見えるというだけで下界とつながっている安心感があった。 |
軍艦島の写真集を持っている。風景が大津山と似ているからだ。軍艦島には飲食店もパチンコ店もあった。 鉱山(炭鉱)という特殊な狭い地域に住んでいた人たち。狭くても特殊でも、そこにはそこなりの楽しい日常があった。(はずである) |
過疎化が進んで消えていった集落は珍しくない。生活の場をそのまま残して人が消えた集落「大津山」。 働く男達が、家を守っていたお母さん達が、無邪気に遊んでいた子供達が消えて40年。吹き抜ける風は今も変わらない。 |
学校と並んで建っていた「鉱山神社」。名前がいい。足尾銅山など全国の鉱山に山神社として同じような神社がいくつかある。いや、「あった」が正しい言い方かもしれない。山神社のほとんどがなくなっている。 |
今年の花粉はすごい。これが普通で去年が少なかったのか? どちらでもいいが辛い。花粉症用のゴーグルが売られていないので草刈り用のゴーグルを買ってきて使っている。これは優れものだ。畑作業はこれで花粉の被爆から守られている。 ちょっと怪しい格好だが誰もいない山なら問題ない。マスクは息が荒くなると苦しいのが難点。 |
名古屋の岩月から「オンナマンサク」は「アブラチャン」じゃなく「ダンコウバイ」ではないかとのメールが入る。 どちらか分からないので写真を何枚がアップした。どちらでしょう? |