茂住谷と流葉



茂住谷のコゴミ畑(ここは田だったのか家が建っていたのか、もう知る人はいない)

所 在 地飛騨市神岡町
入 山 口国道41号線の茂住集落から(茂住谷)と西集落から(流葉)
入 山 日2024年4月26日
天   候晴れ


 

茂住谷

 毎年、茂住谷でコゴミを採っている。もう遅いような気がしたが、行ってみないと気が済まない。
 ささっと採って、時間が余れば流葉山にでも登ってみようと出かけた。


長棟への林道は昨年から崩壊したまま(幅50m 高さ100m)

 昨年の夏、大津山の登山道の整備をしようと出かけたとき、長棟林道が崩壊していた。
 崩壊の規模からみて修復は難しいだろうと思っていた。予想通り、手つかずのままだった。


最初はがれきの上を行く

倒木が現れだす


大きな岩と倒木

普通の崖を行くより始末が悪い

 昨年は見ただけで帰った。今回、歩いてみたら崩壊の規模は予想を超えていた。幅は50m近くあり、高さは100m以上にわたっていた。
 崩れ方が酷く、簡単に通れそうもない。誰も通っていないようで踏み跡は見あたらなかった。


茂住谷集落跡に残った唯一の建物は神社

 消え去っていく集落に最後まで残る建物が神社だと思う。茂住谷集落も例外じゃなく、人がいなくなって半世紀が過ぎようとしているのに神社だけが残っている。守る人はもういない。


このあたりに田があったのだろうか?

 コゴミは全てほうけていた。いくつかは残っていてもよさそうなのに全滅。
 せっかくなので数年前に発見した謎の石仏群に寄ってみた。


謎の石仏群の1番上にある明治22年1月の墓

信女と信士の連盟になっている墓(珍しい)

 どうしてここに沢山の石仏が無造作に集められているのか?
 茂住谷の事を知っていたと思われる大津山の大人達、茂住の大人達のほとんどは、もう他界してしまっている。謎に包まれたまま歴史の中に消えていくしかないのだろうか?


無造作に積まれたようになっている石仏群


明治10年の年号が入っている

安らかに眠っているような石仏


台座だけが残っている

名前が書かれているようだが読めない


首が折れた石仏や前に倒れた石仏

きれいに整理してあげたいと思うのだが?


怨念がこもっていそうなエンレイソウ


同じところを戻る

落石に注意しながら


素早く通り抜ける

ここまで戻ればもう大丈夫


昔はここに抗口があった(増谷抗口)

 半世紀前、ここに三井金属大津山抗の抗口があった。私の父もここから入坑していた。
 建物のほとんどが崩壊してしまって、鉄塔が2本残っているだけとなってしまった。
 ここも歴史から、記憶から消えていく風景となっていくのだろう。


抗口跡から真下にのぞむ排砂ダム

排砂ダムへの入口は閉鎖されている



流 葉

 流葉に移動して、いつものキャンプ場下の駐車場に車を停めさせてもらう。
 時刻は12時を過ぎていて、昼食をとる時間(場所)が微妙になってきた。


流葉に移動するも時刻はすでに午後


とりあえず頂上に向かう

途中で少しコシアブラを採る

 キャンプ場の管理人が来て、キャンプ場に入らないよう注意される。
 キャンプ場に入らないように回り込んでゲレンデに出た。藪に入ってみるとコシアブラが少しだけ出ていた。まだ少し早いようだ。
 途中、岐阜蝶の採取をしている人達3組4人と出会った。岐阜県は採取禁止になっていないので愛好家(?)が集まってくるのだろうか?


今日はリフトの終点に向かってまっすぐ登った

2基のリフトの終点が同じところにある

 お腹が空いてシャリバテ気味になる。クワッドリフト終点でランチタイムをとった。
 今年はもう流葉山頂上に立っているし(3月27日)ピークハンターでもない。
 途中にコゴミ畑があったので、登山から山菜採りに切り替えた。


流葉スキー場の麓にある西集落の田園風景


リフト終点からでも薬師岳から御嶽山まで見渡せる


北ノ俣岳、赤木岳、黒部五郎岳

槍ヶ岳、笠ケ岳、穂高連峰


乗鞍岳

御嶽山


登山を中止して、コゴミ採りに変更

 リュックは登山用具でほぼ一杯になっていて、沢山採っても入らない。両手に提げたビリール袋を監理人見つかるのもいやだった。
 今回は少しだけいただいて帰ることにした。


キャンプ場下の公共駐車場とキャンプ場の管理棟